元広島ギャレットが死去
https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20191021-11

ギャレット
元広島のギャレット氏が死去、78歳 79年広島初の日本一に貢献

カブスなどで活躍し、広島時代の79年には球団初の日本一に貢献した元外野手のエイドリアン・ギャレット氏が、22日に肺炎のため亡くなったと23日、AP通信など複数の米メディアが報じた。78歳だった。

ギャレット氏は66年にブレーブスでデビュー。その後はカブス、アスレチックス、エンゼルスを経て77年に広島入団。1年目から35本塁打を放ち、2年目には40本塁打を放つなど3年間で通算102本塁打を記録した。78年にはオールスターMVPに選出。引退後はホワイトソックスやロイヤルズなどでコーチを務めた。

(全文はリンク先)
https://www.nikkansports.com/baseball/news/202104240000042.html


・プレーを見たことはありませんが、広島屈指の長距離打者だったと聞いています。往年のカープファンには印象深い選手なのでしょうね。心よりご冥福をお祈りします。



→私が子供の頃は、ギャレット、ライトル、シェーン、ホプキンズの時代。みんな個性的で味のある選手ばかりだったな。
 




【関連記事】



・子供の頃、巨人戦しか放送してなかった中で、ホームランバッターの印象があります。
昭和53年は40本塁打なのにベストナインに選ばれなかったので、誰が選ばれたのか改めて見てみたら、マニエル、山本浩、若松だったので仕方がないですね。



・78年の球宴史上初の3発にも触れて欲しい。
奇しくも市民球場の試合でファンが大興奮、ラジオで上野隆紘アナが絶叫していた。



・オールスター戦で3本の本塁打今でも覚えています。本塁打のあと張本さんがギャレットに頭を下げていました。




・たしか当時の広島のレギュラーメンバーは、1番高橋慶彦、2番ライトル、3番衣笠、4番山本浩二、5番水谷、6番ギャレットだったかな。今見てもワクワクするような打線だと思う。



→現役を見てたわけじゃないけど、名前の並びだけで威圧感を感じる打線。なんというか、武士の集まりみたい(笑)



→慶彦さんは同時期の不動のトップバッター。33試合連続安打の日本記録はギャレットさん在籍時だったと思います。
山崎さんが少し後ですかね。当時のセカンドは他の方のコメにある三村さん、たまに木下さんだったと思います。



・ライトルはシュアーなバッティングと強肩、ギャレットは一発長打の破棄力で自分にとってはこの2人が歴代の外国人選手で最も印象に残っています。

特にギャレットは外国人選手なのに捕手を守った時期があり当時小学生で観戦経験があまり無い自分でも珍しいなぁと思いました。

優勝が決まる阪神戦でセンターバックスクリーンにぶち込んだホームランは絶対に忘れません。



・自分が記憶にある最初の助っ人コンビはギャレットとライトル。カープ史上最強と言っても過言ではない助っ人コンビだったと思う。
ライトルと浩二で打点王争いをして、他に衣笠とか慶彦がいたんだから、そりゃ強いわ。



・巨人ファンですが、小学生の頃に本当にいい選手で嫌でした。ライト・ライトルと共に左の強打者で、こちらのホワイトトマソンと比べると羨ましくて羨ましくて。



・巨人ファンだった私にとっては本当に怖い助っ人でした。パワーがありましたね。捕手やったのも覚えてますよ。

あの頃の広島打線。慶彦、ライトル、浩二、ギャレット、衣笠。勝負強い水谷もいましたよね。足もパワーもあって強かったなぁ。それで投手陣もエース北別府、抑えが江夏。
今思えば恐ろしいチームでした。



・ギャレット懐かしい。ドラファンですが良く打たれた記憶があります。弟もドラゴンズで活躍しましたね。



・ホプキンス&シェーン そしてライトル&ギャレットは昭和50年代の黄金時代の名助っ人でした。それ以降のこのコンビ以上の記憶や記録を残した助っ人ってそうはいない



・懐かしい確か月間HR15本位打った記憶が有る。



・打撃だけでなくキャッチャーまでこなす守備力でもカープを助けてくれました。
先日カープの背番号特集の記事見て当時を思い出したばかりだったので残念です。
背番号5の後継者、長野さんの活躍を天国から見守ってください。




・私もカープという球団には誇りを持っていますが、それでも当時はお金もない地方の市民球団だったのは確かで、そんなカープのために来日し、日本一に貢献してくれたことはどんなに感謝しても十分ということはないでしょう。



・あちらの世界で衣笠さんと再会してるかもしれませんね。



・懐かしい名前とともに、もうそういうお歳だったんだとしみじみ感じた。
昔からカープは決して大物ではないが、日本の野球へよくフィットするい外国人選手を連れてきたり、あるいは自前のアカデミーでの育成に長けていた。



・横浜球場(横浜スタジアム)ができたばかりの頃
頻繁に通うなかで、貴方の打ったライト場外への大きなホームランは今でも覚えております。当時の少年、子供たちに与えた夢も大きかった



・79年の日本一メンバーだけど、それ以前の強くなかった頃によく打っていた印象がある。75年の初優勝後いったん落ち込んだチームを支えた選手。
安定度ではライトルに分があったけど相手チームから見て怖いのはギャレットだったのでは。



・当時、世間で米食離れが進んでいてご飯を食べるのを推進するCMに出ていたのを覚えている。「ワタシノ、スキナコース、インコースヒクメ、モウヒトツスキナコース、ゴハンコース」確かこんなセリフ日本語でしゃべっていた。



・キャッチャー使い果たして水沼のプロテクター借りてキャッチャーやったこともあったね(巨人戦)



・本塁打の飛距離では山本浩二よりも、王よりも凄かった。当時の狭い球場では、打球が速過ぎてフェンス直撃の単打になったことも頻繁だった。



・78年40本打って文字通り当時本塁打205本の新記録を作った赤ヘル打線の一翼を担った。
球場で捕手もやり、優しい人柄で興奮した姿は殆ど見なかった印象がある。記憶に残る外国人選手。



・当時の広島の助っ人は、今風に言えば、安心安定。そこに山本、衣笠、水谷や高橋、木下がいた。狭い広島市民球場だから尚更凄い打線だったなぁ。



・カープ歴代助っ人の中でも特に印象深い選手でした。
ギャレットさんがいたことがカープファンになったキッカケの一つ。長打力のギャレットさんと確実性のライトルさんの助っ人コンビは当時12球団最強だと思ってました。








__________________

 

カープのブログランキングに参加しています。1ポチしてもらえると更新の励みになります
(´人・ω・`)オネガイ
にほんブログ村 2ちゃんねるブログ 2ちゃんねる(野球)へ
カープのブログランキングを確認
野球全体のブログランキングを確認