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亡くなってから13年が経過した今も、夫のことを考えない日はないという由美子さん。

「何年経っても、悲しみは消えません。でも、主人が残してくれた3人の子どもという宝物を大切にしながら、主人がいつも実践してきた“一生懸命”を貫き、生きていこうと思います。『あなたが育てたかったように子どもたちは育っていますか?』って、主人に問いかけたい。いつもの笑顔でお疲れ様って言ってくれるかな? そうだといいな」。

長男・恒希くん、長女・生吹さんと、パパとの思い出をよく語り合います。「家族の中に、夫の笑顔と言葉は色あせることなく存在しているんです」。

(全文はリンク先)
https://storyweb.jp/lifestyle/260461/


・残した数字的な成績は特筆すべきものはないかも知れないが、彼は間違いなく超一流プレイヤーだった。









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・木村拓也コーチといえば、何時だったかは忘れたけど、外野手で試合をしていて、その時の登録キャッチャーが3人共ダメになって交代するキャッチャーが居なくなってしまった。
その時に過去の経験だけでキャッチャーを務め、見事ピンチを救った。
ピッチャー以外の全てのポジションをこなすことができる選手はそうは居ない。




・自分は広島ファンだが、彼を放出したのはすごく残念だったし、彼の価値を球団が分かってないことにも腹がたった。
自分の中では歴代で3本の指に入るくらい好きな選手だった。




・木村コーチは現役時代、投手以外の全てのポジションをこなした超ユーティリティプレーヤー。
追悼試合で息子さんが始球式を務めた事で、奇しくも全ポジション制覇となりましたね。
親友・谷佳知選手の満塁ホームランも当時泣きました。きっと木村さんは誇らしくてたまらなかったでしょう。










・我が家も主人が亡くなり、今年で12年になります。
あの当時は子供達を一人前に育てあげるのが、精一杯で無我夢中でした。
今は巣立って行き、結婚もして孫も産まれ 幸せな日々を過ごしています。
主人が生きていたら、孫に甘々なお爺ちゃんになってだんだろうな、と思ってます。




・木村拓也さんがまだカープの選手だった頃、息子を連れて旧広島市民球場に観戦に行きました。一塁側内野自由席のクマヒラの看板の下で試合前の練習を見てたら、近くにいた大学生がスタンドで軟式ボールでキャッチボールしてたのですが、グランドに入ってしまい木村さんの近くに転がりました。

木村さんはそれを拾って軽く投げ返してくれると思ってたら、60mくらいの距離を全力で投げ返してきて「ビシー」という音とともに大学生のグラブにストライク返球して身体能力の高さに驚いたことを覚えています。




・もう13年も経つんだね。
2人の兄姉は成人になり次男は16歳か。





・倒れられた瞬間を見たので、すごくショックだったのを覚えています。
カープから移籍され、ジャイアンツで引退、コーチになって、これからという時でした。
現役時代は、ガッツあふれるプレーで本当にワクワクする選手でした。
決して大きい体格ではなかったけれど、それが気にならない方でした。
存命なら、もっともっと、彼の後継者が誕生していたと思います。
私は彼を絶対忘れません。




・日ハム時代は正直知らなかったですが、広島時代から巨人のコーチになるまで、今まででいちばん好きな選手で今も変わりません。
いろいろな球場で活躍する姿を何度も見ました。キャッチャーマスクを被った延長線も現地で見ました。キムタクさんのホームランボールを捕ろうと手を伸ばし骨折しました。
キムタクさんが亡くなったあと最初の甲子園の試合、谷さんが満塁ホームランを打った追悼試合、みんな現地で涙しました。




・日本ハム時代にファンになり、広島、巨人と移籍後もずっと応援していました。
コーチとして第二の野球人生が始まったばかりだったのに、グラウンドで倒れたとの信じ難いニュース。毎日毎日回復を祈りましたが叶わず…亡くなった日は何度も泣きそうになるのを堪えながら仕事をしました。
試合前に内外野全てのポジションで守備練習をしていた姿を今でも思い出します。




・「プロ野球で生き抜くために卓越した能力がない自分は、何でもこなせる選手になることで生き抜いてきた」

木村拓也選手は、どこでも守れる、そして左右で打てる究極のゼネラリストとして3球団を渡り歩き、巨人で緊急捕手を務め、一流選手の仲間入りを果たした苦労人でした。




・お子さんがまぁ立派に成長なさってね…。キムタクさん、どんなに嬉しいだろう。どれほど無念だったろう。奥様も大変な中、お子さんをしっかり育てて、立派です!

それにしても子どもの頃のお子さんの写真。キムタクさんを3回判でついたように、そっくりそのまま。
ミニ木村拓也がマウンドに立って始球式を立派に務めたことを今もしっかりと覚えていますよ。




・野球ファンとして、あのニュースは衝撃だった。
亡くなったあの日、全球場で試合前に黙祷が捧げられたと記憶している。
ズムサタでも博識で鳴らしていたし、追悼映像も長目に流された。
球界としては大きな損失だった。




・ユーティリティプレイヤーとしての地位は確立していたキムタクさん。
からの、やはりなんと言ってもカトケンが頭部デッドボールのアクシデントで急遽マスを被り、見事に引き分けを導いたあの伝説的なシーンが今でも思い出されます。
観客席からの唸る様などよめき。
テレビ解説の堀内さんもいくらか興奮していた記憶があります。




・子供さんの始球式鮮明に覚えてます!投げ終えた後、阿部慎之助が頭を撫でながら何かを語りかける姿とそれにしっかり応えてる子供さん、原監督も選手をベンチ前に立たせてこちらも何かを語る姿と答えてる子供さん。




・「家族の中に、夫の笑顔と言葉は色あせる
ことなく存在しているんです」
本当に素晴らしい言葉。











・YouTubeで今でも、倒れた時の動画たまに見るし、原監督の弔辞も見るし、急造キャッチャーの動画も見るし、息子さんの始球式も見るし、谷佳知の満塁ホームランも見るし。
見るたび涙が出てしまうけど、見るたびなんか勇気づけられる、そんな選手でした。




・当時、木村さんの葬儀会場へ行き外から見送らせていただきました。
集まったファンに向かって、今にも崩れ落ちそうな感じではあったけど気丈に挨拶した奥様の横で小さな長男が「自分が家族を支えなければ!」と言わんばかりの力強い目をしていてすごいなと思ったのを覚えています。




・夫が亡くなり1年が過ぎました
自宅で急変し私の母が救急車を呼び
私は仕事先を早退して急いで帰りました。
救急車と同時に到着し、
夫は玄関で立ち上がった瞬間に倒れました。
木村さんと同じ、くも膜下出血で2時間後に
死亡が確認されました。47歳でした。



一人息子は4日後に大学受験に行きました
父親の横で泣きながら
『受験料を払ってくれたから…』と。
甘ちゃんだった息子も
大学生になりバイトを掛け持ちしながら
だいぶ大人になりました。
何度も何度も、居てくれたら…と思いますが
最近は泣かないようになれました。

この記事を読み、
また親子で頑張っていこうと思いました





・緒方の引退試合で緒方が守るセンターにフライを打った後に見せたようなキムタクらしい笑顔がもっと見たかったなあ






・小学3年生の頃カープの選手の中で応援歌を1番最初に覚えたのがキムタク
なんで左右どっちの打席にも立つのかとか父に聞いてる中でピッチャー以外のポジション全部できることも教えてもらってそこから大好きな選手になった




・キャリアの最終盤になってジャイアンツでレギュラー取ったもんな

内外野とキャッチャー守れて代打も出来るスイッチヒッター、まさに10番目のスタメンに相応しかった。しかもセカンド抜けた穴が全然埋まらないし。

生きてたら絶対名コーチになったと思う




・No.1にはなれないけど、常に役に立つオンリー1ないい選手だった。
捕手がいなくなった状況で「俺しかいない」と既に覚悟して準備してたのはカッコいい。




・古巣広島の地で試合前の守備練習の最中にホームベース近くで突然倒れた場面は今でも鮮明に覚えています。
現役時代は、控え捕手も起用し窮地に立たされたチームの為に捕手を勤めてくれた日、球史に残る大仕事を成し遂げてくれたことも忘れられません。
突然の悲報で奥様もお子さんも辛く悲しい日々を過ごされてきたと思うと胸が痛みます。
それでも家族が前を向いて進んでこれたのは、木村さんの生前の優しさと、木村さんの優しさに触れてこられた多くの方の差さえがあったからだと感じます。




・長男さんの始球式はほんと涙無くして見れない。
これからの野球人生本人も無念だったと思います。
子供達がちゃんと育って亡き親父さん届くなら素晴らしいと思います。












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