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 元広島監督の三村敏之さんは2009年11月3日に心不全のため亡くなった。当時は楽天のチーム統括本部編成部部長。61歳だった。広島、中日などでコーチを務めた高代延博氏にとっては大恩人だった。「今の自分があるのはミムさんのおかげという思いがある」。選手時代に広島1軍守備走塁コーチの三村さんと出会い、コーチになってからは同じ1軍コーチとして、2軍監督として、そして1軍監督として「いろんなことを教えていただいた」という。

(全文はリンク先)
https://full-count.jp/2023/03/07/post1345620/


・三村さんは派手さは無いけど評価は高いよね。
すぐには結果に結び付かなかったけど、人を育てるのが上手かった。
高代さんも三村さんに育てられたクチなんだろうな。
ノック名人の高代さん、いつも気になる指導者です。









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・金本は著書で、野球の大恩人に三村さんを挙げていました。
三村さんが2軍監督の時に「ドラフト4位のお前なんか、誰も期待なんかしていない。お前が潰れたって誰も困らない」と言われて猛練習を課されました。
金本は絶対に三村さんから嫌われている思い、じっと耐えて練習を続け、彼は当時は線が細かったので、筋トレを続け、後に鉄人と言われる肉体を作りました。そして1軍で4番を打つまでになりました。




・三村さんが亡くなった際に当時コーチだった山本一義が金本さんにこう言ったそうです。
「カネ!ミムさんを決して恨むんじゃないぞ。ミムさんは常々、『カネみたいな選手9人で野球をやりたい』と言っていたんだぞ」
これを聞いて金本は思わず泣いたそうです。
著書ではこう書いていました。
「一番大事な人は、失ってから気づくものだ」と。




・三村氏といえば 広島商業からカープと
まさに「広島一筋」の野球人生でした

現役の頃は長い間の下位低迷の時代と
「赤ヘルカープ」初年でのリーグ初優勝を
経験した不動の二番打者でした










・ノムさんの後任が予定通り三村さんだったら
楽天はどんなチームになってたでしょう。

三村さんの下で着実にチームを作り上げていたら
そのあと星野さんを仙台に呼ぶことは
もしかしたら無かったかもしれません。




・三村さんは監督としてはメークドラマの時の監督ということもあって不運なイメージはあるものの、広島の緒方元監督や金本元阪神監督は理想の指導者として手本にしていたし、低迷期に入ってきていた第二期山本カープ末期に三村さんがHCコーチで就任された時は地元ファンはこれでチームが復活できるかもと諸手を挙げて喜んだほど指導者としての評価は揺ぎ無く高い方でした




・日本球界歴代屈指の超強力打線を育て上げ、球界を席巻した「ビッグレッドマシン」は長打あり、連打あり、盗塁ありの凄まじい攻撃力は忘れられません。




・不運な主力選手の故障離脱で優勝は出来ませんでしたが、あの野村克也さんもヤクルトの監督時代に「広島が一番強い。監督がまともだから。」と言っていたのを思い出します。




・三村敏之氏といえば、1975年9月10日の事件を思い出します。幼い私はラジオで上野アナの実況を聞いていました。

2ー5で迎えた9回の裏、カープはヒットをつないで4ー5まできます。で、山本浩二氏のヒットで「同点だ!」と思った瞬間、中日・新宅捕手のタッチが三村敏之氏の顔面に入り、大乱闘になります。広島市民球場お馴染みのファンも大量になだれこみ、機動隊も出動する騒ぎになります。




・金本さんとのエピソード聞いても顔に似合わず結果追求型の厳しい人だったんだなと感じます。野村克也さんが監督がまともだからと三村監督を評価してるのは野村さんと似てる所があったのだろうと思う。野村さんが亡くなった時にも高津監督が涙しながら厳しい人だったと語っていたのとリンクしました。




・金本選手9人と野球がしたいと言ってたのは、同じ練習でもゲガしない体作りをしっかりしてる金本選手を理想と思ったのだと思う。




・何といっても地元広商出身で生え抜きの名選手・名監督でしたから、いずれ現場を離れた後には地元に戻ってご意見番としてカープを見守って欲しかったですね。
新井新監督も地元出身でカープを率いて苦労もしてきた先輩からのアドバイスは貴重なものとなっていたでしょう。




・三村さんは現役当時背番号9番で三村さんが監督当時緒方さんが9番になった。
緒方さんが監督で優勝したときは三村さんも喜んでいるだろうな。と感慨深いものがあった。




・前田のアキレス腱断裂、江藤の顔面骨折と、2年連続で滅多に起きない事故が続いたのは不運。
先発で結果が出なくなった佐々岡をストッパーに、大野を先発に戻したのは当たった。




・巨人ファンでしたが広島の高橋慶・三村・衣笠・山本浩の強力打線を覚えています。
三村さんはスマートでハンサムだったイメージがありますね。




・私にとって、カープの監督=三村さんです。その後の達川さんや山本さんのイメージもないことはありませんが、やっぱり監督といえば三村さんなんですよね。










・昔の広島は役者揃いだったですね。三村さんの現役時代は山本浩二、衣笠祥雄、大下、池谷、ライトル…三村さんは派手さはない人だけど、監督時代は名伯楽と言っていいくらい、いい選手を育てた。




・三村氏の野球は間違いなく受け継がれている。カープの緒方孝市も監督に就任する時三村家に報告しに来訪している。
緒方の母親が亡くなった時も葬儀へ行かないと意地を張ってた緒方を無理矢理行かせた。
人間的にも選手を教育出来た人。
三村野球を継承して25年ぶりのカープの優勝を手繰り寄せた。




・三村氏は生前 「俺のやった事は俺が死んで100年後くらいに判ってくれる人がいるんだろうな」と言っていた。
『金を残す者は下
仕事を残す者は中
人を残す者は上』

三村氏は間違いなく人を残した。



・三村さんが指揮を執ってた頃は恐ろしいまでに打高投低で、
その走攻守揃った超豪華な野手陣でさえも
投手陣を支えきれなかった記憶がある。




・初優勝時の2番打者だったので、バントばかりの小粒なイメージする方もいますが実は大きいのも打てる強打者でした。
昭和51年は26本塁打。
打順は3番や5番もあった。
広商時代から判るようにセンスの固まりだったようです。




・三村さんが率いてた頃のカープは、あと一歩で優勝は逃してたけど、打撃陣だけみればこの前の3連覇の時以上じゃないかってくらい豪華な布陣だった。




・三村さんの時代の広島の打線はめちゃくちゃ好きだった!FAなしであの超強力打線は今では考えられないなぁ。




・江藤や前田の故障もあったけど
安心して投げさせられる投手が
あとひとりでもいいからいてくれたら
一度くらいは優勝出来てたかなぁ、




・三村さんの書いた本で書いてあった文章で印象的だったのが
「努力という言葉は好きじゃない。工夫と発想の転換で、一流の人間を相手にしても勝負できる。」



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