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1995年のトリプルスリー(打率3割1分5厘、32本塁打、30盗塁)の時は、歯の治療をしてかみ合わせを良くしたとか、初めて子どもができてうれしかったからとか、要因を取材されましたが、よく分からないんです。どうして30本塁打できたのかも分かりません。

ヤクルトの古田敦也さんは「フォームを変えたの? バット変えたの?」とか試合中や練習中に聞いてきました。広島市民球場でのヤクルト戦で最後の打者になった時のことです。凡打して、バットがぐしゃっと根元から折れたんですが、そのバットを古田さんが持っていきました。どうしたのかなと思ったら「何か細工していないか調べた」って言われました。それだけ、僕がこんなに打つわけないと。古田さんも冗談でやったんでしょうけど。

(全文はリンク先)
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選手としても監督としても、カープに多大な貢献をされた選手ですよね。メジャーから調査も来たとの噂もありました。







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・プロ野球の歴史の中で、名を残した素晴らしいショートでしたね。熱血漢で、根性論かと思ったら、科学的な分析やデータを重んじた野球をする、カープに改革をもたらした指導者でもありました。もう一度ユニフォーム姿を見たいです。




・あの年、神戸の震災復興支援で外国人チーム(フォーリンドリームス)と日本人チームのチャリティーゲームがあった。

日本人チームは一番イチロー、二番野村という夢のオーダー。
二人のダブルスチールには本当に痺れた。




・すごい選手でも、実際の本人はケガや長年の勤続疲労と闘っている。飄々と2000本打っていたように感じたが、苦しんでいたとは。シビアな競争社会を読み取ることができる。








・トリプルスリーを達成した年は、シーズン前から「トリプルスリーを狙っていく。」旨の発言をしいて、それ以前も以後も20本塁打すら打ったことがなかった選手がこの年だけ30本塁打以上を達成したのはあまりにも不自然だったからだろうね。




・この頃、謙二郎は並々ならぬ努力で身体が大きくなってユニホームがパンパンだったのを覚えてる。あと、市民球場だったのも確かにあるよね。




・スクワット応援が始まったのもこの頃で、神宮で外野からまず野村の応援歌流れて、内野席の人達があまりの声量にザワザワし始める、というのも面白かった。




・打撃フォームを変えて挑んだらしい。




・試合前の球場で野村さんがサインをねだられた子供たちと話してました。
「君は昨日ヒット何本打った?」
「2本!」
「そうか、じゃあ2000本まであと1998本やな」
晩年の野村さんが二千本から逆算して一本一本安打を重ねていったことがよく読み取れる会話でした。




・センス抜群で安打を一本一本華やかに重ねる姿の裏側で、さまざまな葛藤と戦い、ケガを乗り越えていかなければならないプロの世界はホント過酷だ。




・他チームファンからすると、ヒット性の当たりをキャッチされ、塁に出せば脚でかき回され、甘い球ならオーバーフェンスと、とにかく野村謙二郎さんは本当に嫌らしい(ほめ言葉)選手だった。




・カープファンには頼もしく、他チームファンにはとても厄介な、そんな素晴らしい選手でしたね。




・カープのリーグ三連覇の礎は野村が作ったものと思う。もう一回、監督やってほしい。




・あの頃、なんで弱かったのか分からないくらい凄まじい打線でしたね。

まあ、投手力が無かったのでしょうけど・・・。




・1野村、2正田、3前田、4江藤、5金本…((( ;゚Д゚)))




・野村、江藤、金本、緒方、新井
好きだったなぁ…










・あれだけの打線を誇っていながら絶望的な投手力で万年Bクラスという余りにも残念な時代。




・浅井、町田の左右の代打の切り札も好きだった。




・ディアスも




・そこには前田を絶対に入れて




・91年の優勝は間違いなくノムケンのおかげ。
晩年は本人もチームもイマイチやったけど
一時代は築いた選手。
俺的にはショートと言えばヨシヒコじゃなくてノムケンやな


















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